福井の「常識」を作った男たち。ベルリンから片町へ、ヨーロッパ軒112年のソースカツ丼受容史
福井で「カツ丼」と言えば、卵でとじていない方を指す。
この文化を「常識」として根付かせた店が、福井市片町にある。「ヨーロッパ軒 総本店」。創業大正2年(1913年)、今年で112年の歴史を持つ老舗中の老舗だ。
「事前に調べてきたのですが、調べれば調べるほど、ヨーロッパ軒さんは単なる『ソースカツ丼の店』ではなく、明治・大正の西洋料理受容史そのものだと感じていて——」
そんな前置きで始まった取材は、結局1時間ほどノンストップで続いた。語ってくれたのは、三代目・高畠範行(たかばたけ のりゆき)さん(74歳)。22歳でこの店に入り、半世紀。
ベルリンに渡った創業者・増太郎さんの足跡、関東大震災と福井空襲・震災をくぐり抜けた不屈の歩み、そしてヨーロッパ軒を「福井の県民食」にまで押し上げた範行さん自身の半生を伺った。

有限会社ヨーロッパ軒総本店 取締役会長 高畑範行さん(3代目)
福井市高木町の、ある少年の立身出世
—— 初代の高畠増太郎さんは、福井のご出身ですよね。
高畠:「ええ、福井市の高木町、昔は中藤村と言ったところの出身です」
—— もともと料理の道を目指されていたのでしょうか。
高畠:「全然違います。実家は小作農でね。10歳くらいの頃、市内の魚屋に丁稚奉公に出されたのが始まりです。その後は名古屋の大須にある立ち食い寿司屋で修業して、魚をさばけるようになった。さらに山梨の割烹旅館へ板前として移ったのですが……そこで板長さんと喧嘩をして飛び出しまして」
そこから物語は急展開を見せる。東京・横浜へ出た増太郎さんは、ある募集に手を挙げた。
高畠:「後の総理大臣・加藤高明さんが、日英同盟条約の改定のために全権大使としてイギリスへ行かれる際、随行する外交官たちの食事係を募集していたんです。それに飛びついた。船の中で食事を作りながらイギリスへ渡り、そこから紹介を受けてドイツ・ベルリンの『日本人倶楽部』というレストランで5年修業しました」
ベルリンで交錯した、二人の「福井人」
ベルリンの日本人倶楽部で増太郎さんが腕を磨いていた同時期、ヨーロッパにはもう一人の福井出身者がいた。後に「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵である。
高畠:「秋山さんは越前市の出身。同時期におじいさんはベルリン、秋山さんはパリにいて、休みの日には行き来して交流があったそうです」
その後、明治45年(1912年)、増太郎さんはお見合い結婚のため一時帰国する。シベリア鉄道で敦賀へ戻るという、当時としては壮大な旅路だった。
高畠:「もう一度ドイツへ戻るつもりでしたが、明治天皇が崩御され、国民は海外渡航を自粛するようにと。戻るに戻れなくなったんです。ベルリンに残してきた荷物は、秋山さんに頼んで処分してもらったと聞いています」
後年、秋山徳蔵が帰国し、大正天皇の即位晩餐会を準備する際、増太郎さんに「一緒にやらないか」と誘いがあった。だが増太郎さんはそれを断る。
高畠:「『もう宮仕えはいい、自分で商売する』と。そこは職人気質だったんでしょうね」
早稲田、横須賀、そして運命の関東大震災
大正2年(1913年)、ヨーロッパ軒は東京・早稲田鶴巻町に開業する。早大生の間で繁盛したが、夏休みに入ると学生がいなくなるのが悩みだった。
高畠:「それで夏の間は、顧客だった外交官たちが集まる葉山の避暑地へ行って、季節営業をしていたんです。ただ、通年で商売できる場所がいいと探し当てたのが横須賀でした。軍港で海軍さんがいて、洋食に馴染みがある街ですから」
しかし、横須賀で店を構えていた最中、関東大震災が襲う。
—— もし関東大震災が起こらなかったら、日本のカツ丼のデフォは「卵で閉じない」ものになっていたかもしれませんね。
高畠:「かもしれないですね。卵とじのカツ丼はうちより遅い大正10年登場ですから。ま、あちらは東京、うちは横須賀だったので、知名度の勝負は分かりませんけど」
被災した増太郎さんは、1924年(大正13年)、故郷の福井へ戻る。現在の総本店の3軒隣に店を出した。当時の片町は、繊維問屋と劇場が立ち並ぶ、福井一番の歓楽街。増太郎さんは、ベルリン仕込みのソースを使い、新たな歴史を刻み始めた。

「のれんが退職金」という、共生の思想
現在、ヨーロッパ軒は福井県内に19店舗を展開する。そのほとんどが「暖簾分け」だ。
高畠:「昔から、10年修業しないと暖簾は分けられないという決まりでした。うちは一切ロイヤリティを取っていません。ずっと一緒に飯を食った仲間ですから。暖簾が退職金、という考え方です」
2ヶ月に一度、各店の主人が集まる「同進会」が開催される。範行さんが22歳で店に入った時、後に分店を持つことになる兄弟子たちは、寝食を共にした「お兄ちゃん」のような存在だったという。
この強固なネットワークが、味のアイデンティティを支えている。
ソースの「最後の一加え」は、店主の個性
ヨーロッパ軒のソースは、西宮の「イカリソース」に特注したものがベースだ。
高畠:「一度に2000リットル単位で発注しますが、メーカーさんにも教えない『隠し味』を、最後にうちで加えるんです。それが暖簾分けの秘伝。ただ、各店の常連さんの好みに合わせて、少しずつ甘くなったり辛くなったり、各店で個性が生まれる。うちはそこまで厳しく制限していません」
特に福井と敦賀では味が違う。敦賀の初代が名古屋で修業した経験から、敦賀系は少し濃いめの味付けになっているという。メニューも、ロシア船が入港した歴史からボルシチを出す店舗があるなど、店ごとのバリエーションも楽しみの一つだ。
三代目が仕掛けた「県外戦略」と、五代目へのバトン
範行さん自身の歩みも、店の転換期と重なる。
高畠:「私は17歳で取締役になり、大学卒業後は迷わず店に入りました。ちょうど50年になります」
—— 1970年代当時から、すでに今のような「県民食」だったのですか?
高畠:「いや、全然違いました。きっかけは1990年代に『文藝春秋』の丼特集で表紙に選ばれたこと。そこからメディアの注目が集まりました。あとは物産展ですね。冬場は店が落ち着くので、越前ガニの物産展に一緒について行って、全国でPRを続けたんです。戦略的に動いた結果かもしれません」
二代目が県内へ暖簾を広げ、三代目が県外へ名を広めた。
そして今、範行さんの孫にあたる五代目候補は、調理師学校で学んでいる。
「ここは古いお店がいっぱいありますから。朝倉時代から続く味噌屋さんやお茶屋さんに比べれば、うちはまだ新参ですよ」
そう笑う範行さんだが、その表情には、福井の食文化の一翼を担ってきた自負が滲んでいた。
取材を終えて

店内で112年分の物語を聞いているうちに、口の中は完全に「ソースカツ丼」を求めていた。
しかし、その歴史の重みを知った後では、次の一杯をどう向き合って食べるべきか、かえって贅沢な悩みが増えてしまった。次はどの暖簾をくぐろうか。各店で微妙に異なるという「最後の一加え」の味を確かめに、また片町へ、あるいは敦賀へ足を運びたいと思う。
ヨーロッパ軒 総本店
福井県福井市順化1-7-4
営業時間:11:00〜20:00(火曜定休)
取材・文:中島健吾
